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自分の理想像を描く話

先日、ご卒業された先輩に人生相談のようなものをしてもらった


そこで言われたのは、「どんな自分になりたいのか」という問いであった

その時には「理想像を失った」という話をしたことを憶えている


高校生の頃、私は計画するのが大好きで、沢山の理想像があったように思う

当時は文芸部で小説を書くのが好きであったから、その中に理想像が様々な形で表れていた


ここでは恥ずかしいから具体的なことは言わない


それからしばらくして、大学生になり段々と社会というものが見えるようになっていった

その中で、理想像は結局のところ理想に過ぎないことを知った


私は理想を諦めるという選択をする


それが脳の中でシミとなって居座り続けるようになっていった

諦めてしまったんだという自分に対する失望が常に頭にあった


いつしか、理想像を持たない自分に依存していた

理想像を持たないということは、中立的であることから昔からの自分の理念に合致していたし、そのネガティブな意識の中で抜け出すことさえ諦めていた


しかし、私は誤解をしている

理想像というのはそんな将来の夢みたいなものだけではなく、些細な道しるべとして時折現れるものだ

現状維持だって立派な理想像

そういう意味では、小さな理想は幾つもあった


つまり、実際は理想を持っているにもかかわらず、それを認めない自分がいたのだ

そして理想像を失ったというレッテルが自らを苦しめていたことに初めて気付いた


今と昔で同じことをしても、必ずしも同じ結果になるとは限らない

一度諦めたからといって、また志してはならない理由にはならない

何の話かというと、結局考え直してみても、理想像は高校生の頃から変わっていないということだ


大切なのは「今、どうしたいか」ということ

先輩の言葉でそんなことに気付かされた

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