多様性とかいう最近の感覚について
- oicsyaken
- 2021年7月29日
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ここ最近、多様性の尊重という言葉をよく目にする。それでこそ性別や国籍等々、多様な視点でこれが論じられているわけであるが、我々は実際にこれを望んでいるのだろうか。個人的には多様な考えや主張、感覚などを持っていることは何ら問題ないことであり、それを問題にして取り上げることは埒外であると感じる。
しかしその多様性を求めるのならば、集団で何らかのことをするよりも個人によって行うほうがそれに関するコストは低いように感じられる。つまり多様な諸要素を一つのまとまった形にするよりも個人がその多様性を活かして動かした方が初動も早く、また多様性も十分に保たれると考えられる。
ここにおいて多様性というのは2分される必要があると感じられる。1つは目的の多様性、もう1つは方法の多様性である。
まず前者、これは目的が多様であるということを示している。例えば将来はああなりたい、こうなりたいのようなものである。実際、個人の多様性というのはこの部分に当たると考えられる。この場合、たとえ方法が同じであったとしても目的が異なればそれら個人の結びつきは希薄であると感じられる。そのためこの目的の異なる多様性というのは個人を描き出す指標とはなれど、持続的な集団を示すような指標にはなりえない。何ら目的の共有していない集団が持続すると考えられるだろうか。個人の目的が変化することはありえ、それはありきたりなバンド解散などのようにして現れてくると考えられる。それはどの程度の集団規模においても見られる。例えばある地域に住むという目的が共有され、その地域住民が象られる。しかしその地域特性を鑑み、自身の目的と合わなければ、その地域から移住するというようにである。概して目的の多様性は個人に属するものであり、その多様性自体は問題ではないもののこれは集団においては求められていない。
集団において求められているのは方法の多様性である。これはある特定の目的に基づく集団において、その目的を達成するための方法を多様化したものである。これは目的の多様性などは存在せず、一意の目的に対して様々な視点からそれにアプローチするというものである。そのため自分の意志や希望などはその目的の中に包摂されていなければ通らない。そのため、この目的の一致が無ければその集団においては求められない人物であると判断されることとなる。よって集団において求められるのは目的の熟知とそれに対する視点であり、個人の多様性はただそこにおいて現れるものと認知しなければならない。
多様性というと認めあい、互いを尊重するという文脈で語られがちであるが、集団内の場合ではこのことは通用しない。これは別に集団の在り方を批判するわけではなく、ただ個人と集団の違いを多様性という視点から簡易的に見ただけである。現在、多くの集団において選択して入ることができる状態である。そのため、多くは自由意思での決定とみなされるのが現状ではないか。よってその集団に入る前に自身の多様性とその集団の目的を見ることによってより良い選択になる可能性を少しでも上げることが可能であろう。もし合わなかったならば、その個人ができる選択はその集団から離れるか、それともその集団の目的と自身の多様性を合わせるかである。
畢竟、個人の多様性は集団においては求められていない。
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