芸能の歴史についてまとめてみた②(レジュメベタ張り)
- らびっとぉ
- 2021年4月11日
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芸術集団の形成
古代歌舞集団
古代では氏族や豪族は職能集団と一致していた。
又、これらに属さない渡来人なども、それぞれの職能ごとに分類され、地域で区切られていたとされる。例えば、701年の大宝律令では雅楽寮について定められている。
雅楽寮(うたりょう)
日本固有の倭楽と大陸系の雅楽に分かれ、年中行事などでそれらに携わる人々はそこに住まわされた。
法師による分散
・琵琶法師
言わずと知れた平家物語の語り手。蝉丸という盲目の僧をはじめとして、多くの琵琶法師が各地に語りに行ったという。
・田楽法師
各地で田楽を舞う僧のこと。又、租税を免れるために出家し、田楽法師になった者もいたとされる
・猿楽法師
各地で猿楽を舞う僧のこと。
技術者集団の再構成
このように、技術者は自由を獲得してきたが、その後は再度集団を形成していくこととなる。
・同朋衆
阿弥号を持った技術者達は徐々に集まるようになり、室町幕府の三代将軍足利義満以降、将軍に仕える芸術家として同朋衆が構成されるようになっていった。これらは時の権力者の元を転々とし、江戸時代まで存続することとなった。
・座
朝廷の権力が没落するにつれ、武士の台頭と共に商人も権力を握っていく。その中で、座と呼ばれる同業者組合が出現しその地位を確立していく。
能楽
能楽とは
成立過程から複数の演目が合わさっている為、全体を言い表すのは難しいが、まず舞台が簡素であり、動きもゆったりしている。観客は舞台に近く、横から見ることが出来る。又、能面を用い、舞という意味合いが残っているものである。
以下能楽の歴史について見ていく
1,散楽から猿楽へ
散楽は先述の通り曲芸であったとされるが、貴族には受けが悪く、桓武天皇(8世紀後半)の時代には散楽戸と呼ばれる都にあった散楽師の住居も廃止となっている。
しかしその結果、大衆に受ける形へと変化をし、現代の猿楽に近いものとなっていった
⇒真似事や滑稽な仕草を行うもの
2,観世一座
観阿弥・世阿弥は猿楽に田楽と曲舞を組み込み、また自ら脚本を行って能とその作品を仕上げた。
曲舞について
15世紀末から16世紀初頭にかけて成立したとされる舞。南北朝時代に栄えた。物語を持っており、拍に合わせて歌いながら舞う。現在ではほとんど残っていない
3,大和猿楽四座
室町幕府の滅亡と戦国時代に突入するにあたって能は各地で独自の発展を遂げることとなった。その結果、豊臣秀吉が再度猿楽を保護した際には以下の四座があった。
⇒観世座(結崎)、金春座(円満井)、宝生座(外山)、金剛座(坂戸)
その後、四座は江戸幕府下でも保護され、狂言や式三番を取り込んで現在の形が出来上がった
式三番について
翁の演目で知られる能楽の一つ。五穀豊穣の意味合いがあるが田楽ともまた異なる。
歌舞伎
歌舞伎とは
三味線による旋律を特徴とし、比較的きらびやかな衣装や舞台装置を用いる。面を付けずに化粧で顔を表現する。一般大衆向けの物語で、言葉も比較的分かりやすい。
以下、歌舞伎の歴史について見ていく
1,出雲阿国
歌舞伎の始まりは16世紀末期、出雲大社の巫女である阿国が男装して各地で踊ったことに由来する。
歌舞伎という名称は当時の奇抜なファッションの人のことを指す「傾き者」から来ており、歌舞伎踊りは瞬く間に広まった。
2,歌舞伎禁止令
その後、歌舞伎踊りは各地の遊女屋に取り入れられ遊女歌舞伎なるものが出来上がった
しかし、幕府は女歌舞伎の禁止令を出して対応。
これに対して今度は若衆歌舞伎と呼ばれる男娼を中心とした少年による歌舞伎が発展。しかし、追って若衆歌舞伎も禁止されることとなった。
3,野郎歌舞伎
結果的に成人した男性での公演は許された為、ここから江戸と大阪を中心として歌舞伎が発展していく。
特に江戸では市川團十郎などによって荒事が大成され、逆に上方では坂田藤十郎などによって和事が大成されていった。
その後も人気歌舞伎役者を輩出し、現代まで続いていった。
e.g. 尾上菊五郎、市川海老蔵、市川左團次など
人形浄瑠璃
人形浄瑠璃とは
類似する人形劇は各地に残っているが、人形浄瑠璃といった時には一般に、三味線の伴奏で人形を操る劇となる。基本的に太夫、三味線、人形遣いの三人で行われる。
以下、人形浄瑠璃の歴史について見ていく
1,傀儡子
散楽の一派として存在していた操り人形師が独立する形で形成された。
一部ではえびす信仰と結合し、時に呪術的で、時に遊女屋に取り入れられるなどして伝承されていったとされる。
2,古浄瑠璃
その後、戦国から江戸時代にかけて三味線音楽のことを指す浄瑠璃と合わさり、人形にも細工が為され、現在の基盤が出来上がっていく。
3,文楽(人形浄瑠璃)
17世紀後半には竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開設して人形浄瑠璃を大成させていく。
文明開化と新劇
西洋文化の流入
明治時代に入るとオペラやダンス、バレエ、オーケストラなど様々な西洋文化が日本にも入ってくる。東京を中心に有楽座や帝国劇場などの劇場が新設された。
有楽座について
東京有楽町に1908年に開場した西洋式劇場。
坪内逍遥らの文芸協会や小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる
帝国劇場について
東京丸の内に1911年に開場した西洋式劇場。過去に二度、解体と再建を繰り返している。東宝が運営
自由劇場運動
新劇運動とも言う。最初は西洋の役者や演奏者を招いていたが、大正時代にかけて日本国内にも新しい劇を作ろうという機運が高まり、小山内薫や二代目市川左團次を中心に女優の起用や茶屋制度*[16]の廃止などが掲げられた。その後、小山内に土方与志が加わり、築地小劇場が作られる。
築地小劇場について
東京築地に1924年に開場した新劇の常設劇場。築地小劇場は団体名でもあり、新劇が公演された。後に土方がプロレタリアに傾倒すると劇団は分裂した。
少女歌劇団
少女歌劇ブーム
大正から昭和初期にかけて低年齢の少年少女による演劇が人気を博していった。レビューとも言う
・宝塚少女歌劇団
・OSK日本歌劇団
大阪松竹歌劇団。1922年に創設され、SKDが出来て以降は関西を中心に活動することとなった。その後、1971年に近畿日本鉄道グループの子会社となる。宝塚歌劇とは対照的に衰退の一途をたどり、2003年に一度解散となった。しかし、団員に存続運動によって再結成し、現在はネクストウェアの子会社となっている
・SKD松竹歌劇団
OSKの姉妹劇団。1928年に東京松竹歌劇団としてOSKから分離する形で結成。OSKと同じく衰退の一途をたどり、1989年からレビューではなくミュージカルへと路線変更を図るも、1996年に解散。
ここから先はテレビの普及により芸能は多様化したのでまとめられないと判断しました。
中途半端ではありますが、ここまで見て下さり誠にありがとうございます [10] 時宗……阿弥陀仏を信仰し、踊念仏などで民衆に受け入れられていった。基本的に寺院を持たず、開祖の一片を含め遊行上人として各地を歩いて布教した。 [11] 阿弥号……時宗の衆徒に与えられる名前。しかし、徐々に時宗以外の者でも阿弥号を名乗るようになっていった。因みに阿弥号が与えられるのは男性のみ。 [16] 茶屋制度……周辺で食事を提供している茶屋のこと。それらは同じ会社によって運営され、チケット販売の役割を担っていた。現在でも相撲や歌舞伎などでその名残が見られる。 [18] 宝塚歌劇団の組……花組、月組、雪組、星組、宙組の五つに分かれている。 [19] 宝塚歌劇団のスターシステム……主役の役者を決める為のシステム
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